2018年 05月 22日
フランシス・ジャムの詩
「ジャム詩集」(新潮社文庫)、フランシス・ジャム、堀口大学訳
最近、田園風景を思わせる音楽や文章がより好きになった。生活の中で、目で見て美しいもの、心地よい時間、それはいい音楽を聴いていることと同じものと思えるようになった。確信をもてるようになったのは、友人から「なつかしさ」という大切なキーワードをもらったから。ひとつの答えをはかる重要な、そして便利な言葉になっている。
例えば「プラテーロと私」というフアン・ラモン・ヒメネスの散文詩が、その詩につけられた朗読のための、同名のカステル・ヌオーヴォ=テデスコの曲が、それを演奏するアンドレス・セゴビアのギターの響きが、「芸術というもの」という意識や感動から、実感としての「ある感覚」となって自分の中へ消化され定着する。美しい時間を過ごした時と同じように。
そうして、その思いが感覚が正しいかどうか、ヒメネスが好んだであろうロンサールの詩をさぐってみたり、フランシス・ジャムの詩を読んだり、再びヘッセの詩を文章を読みなおしてみたり、熱心に聞いてきたクラシック音楽というものを聞きなおしてみたりしている。特に、フランシス・ジャムの詩を読むことは、未体験だけに興味をもっている。
ジャム詩集の終わりにある「フランシス・ジャム小伝」のなかで、フランシス・ジャム本人が文章として公表したというジャンミズム宣言のなかの一文は、大切な確信的な文章として心に残る。
「私は思ふ、唯一の詩派が存在すべきであると、さうしてそれはジャンミズムであると。さてまたジャンミズムの詩人は、児童が出来るだけ正確に習字手本の文字を真似て書くやうに、美しい小鳥を、花を、さてはやさしくふくれた乳房と愛す可き脚をもった少女をす寫(うつ)す可きである。」
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by teccyan1
| 2018-05-22 10:37
| 日々のこと
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