2007年 10月 10日
高田宏「エッセーの書き方」
「エッセーの書き方」(高田宏/講談社新書)
買った時は漠然と手にしたように思うが、この本で書くことをかなり意識し始めた。モンテーニュの「エセー」からの言葉をひいて、うそのない文章を書けとあった。
//自分のことよりほかには何も目ざしはしませんでした。//
//わたしがここにお目にかけるのは、もっぱらわたしのもって生まれた能力の試し(エセー)なのであって、決してわたしが後に得られた能力(学問知識)の試しではないのだ。だから自分の無知をうっかり人に見られても、わたしは別に困りもしないのである。//
そして高田宏本人も、
//もし、エッセイストという呼び名が、身辺雑事をただなんとなく書きちらす人とか、重い事柄を避けてちょっとしたことを器用に軽妙に読ませる人とかに与えられるものだとしたら、そういう呼び名はごめんこうむりたいものです。//
と書いている。
あらためて読むと、こんなブログを書いているのが恥ずかしくなるが、本人の技量だから受け入れるしかない。
この本を手にしたという時点で「書きたい」という気持ちがあったはず。今は文章にしていること自体に安心して身体が納得している。そして”身辺雑事をただなんとなく書きちらす人”になっているわけだ。
希望としては、そこから抜け出したい。自分で自分の心にきっちりはまるジグゾーパズルのピースを書きたい。ヘッセ、森有正、ルナール、松尾芭蕉の言葉はその掛け橋になっているが、今の自分にはぐらぐらと揺れる不安定なはしごしか作られず、なかなか向こう岸は見えない。
意識的に本を読むようになったのもこの本の影響だが、先人の優れた文章を読むと、それに圧倒されて読むことに追われてしまう。しかし書くことと読むことは関係があると感じるので、やめるわけにはいかない。
最近は指がわるくなる、目は悪くなる、耳は悪くなる、で頭悪い、顔悪い、根性悪い。ともかく、十代に文章を読まなかったつけが回ってきている。
グチグチ、ブタブタ言おうとも、いけるところまで「試みる」ことを試みるしかない。
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サブイボ
at 2007-10-10 21:44
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てっちゃん!
この文章に触発されたので、わたしのコラムで「てっちゃん」の名を
出した上で、文章について書いてもいいですか?
この文章に触発されたので、わたしのコラムで「てっちゃん」の名を
出した上で、文章について書いてもいいですか?
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てっちゃん
at 2007-10-10 22:03
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いいですよ。楽しみですね。
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サブ
at 2007-10-10 23:46
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てっちゃん
at 2007-10-11 08:17
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読みました。さぶいぼさんの気持ち、よくわかるつもりです。
文章は自分にも、他人にも向かっていきますし、公開しているということは、それを望んでいるということでしょう。
文章を書いて吐き出している、という満足感がまずある。何が書いてあるかという到達感がある。それはどのようであるかという充実感がある。そういうことを感じながら書いている。
私は、書こうと向かったものの横すべりして到達できない、がしょっちゅうです。読んで書いてがっかりして、やっぱり書いて、ちょっとうれしくなって、もっと書いて。そのためにも、続けるしかない。
続けましょうね。
文章は自分にも、他人にも向かっていきますし、公開しているということは、それを望んでいるということでしょう。
文章を書いて吐き出している、という満足感がまずある。何が書いてあるかという到達感がある。それはどのようであるかという充実感がある。そういうことを感じながら書いている。
私は、書こうと向かったものの横すべりして到達できない、がしょっちゅうです。読んで書いてがっかりして、やっぱり書いて、ちょっとうれしくなって、もっと書いて。そのためにも、続けるしかない。
続けましょうね。
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サブイボ
at 2007-10-11 21:58
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はい!
続けていきましょう。
続けていきましょう。
by teccyan1
| 2007-10-10 08:20
| 本
|
Comments(5)