2008年 03月 19日
西洋的個人
「西洋中世の男と女」(阿部謹也/ちくま学芸文庫)を読んで
西洋における個人とはどこから発生したか。
著者は、ヨーロッパの人々の古代における宗教観が中世のキリスト教の宗教観へ変わるにつれ、男女の愛の行為における罪の意識を、人々がどのように受け入れ、反発したかを述べて、罪深き人とされた女性の心の中に生まれた、神でもキリスト教の権威でもない、「聖なる意識」をもって、個人の発生を示唆する。
キリスト教がより聖なる人へ向かうため、その教義にのなかに、結婚を取り入れたため、男女の夜の愛の行為まできびしく律するようになり、それがキリスト教以前の土着の聖なる感覚や、人の動物として自然な行動と対立し、教義と実際の矛盾をついて個人が生まれてくる。
読んでいると、そんなことまでくちばしをつっこんでくるか、みたいなことが書かれている。「ウーマンリブ」とか「フリーセックス」とかいう言葉も、こういう歴史があったからこそ生まれた意識だとわかる。西洋における個人主義は、西洋式の個人であると思える。
私は、今思えば、個人主義だとか民主主義だとか、そういう西洋的、思想的なものは、日本より優れているものとして受け入れてきたし、それをなんとなくよりどころに生きてきたように思える。
簡単にいえば、それは西洋の個人でしかないので、わたしは勘違いしている。日本人が日本人的個人であるためには、日本人が作る以外になく、それはひとり一人の内面における戦いであり、キリスト教における「聖なるもの」の代わりになる何かをよりどころに生まれるはずである。
中世ヨーロッパのキリスト教による影響下の生活は、「世間」の影響から脱出できない今の日本人の生活と似ているところがある。また、アメリカという国は、その中世ヨーロッパを引きずりながら近代化してきた国であるということを知る。裁判制度など、陪審員制などまさに中世のそれを引きずっている形だという。
私たちは、欧米を誤解していないだろうか。
by teccyan1
| 2008-03-19 09:30
| 本
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