カテゴリ:本( 121 )

星の王子さま

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「星の王子さま」
サン=テグジュペリ作 内藤濯訳 岩波出版

やっと、読んだ。いつも読みかじっては挫折していた。やっと、やっと、ああ面白いと、興味をもって読むことができた。

大切なことは見えないこと、ひまつぶしをすること、最後までしなければならないこと、わからなくて、見えないけれど、大切なものを内包しているから素敵に見えること、見えるものの世界で生きているわたしたちの生活とはどのようなものか。

この本を生涯、手放さず愛読している人がいることが、わかった気がする。なるほど、すてきな本だ。また、気軽に読むには、一語一語に大切な何かを見落としてしまうような表現があるように思える。

童話の形を借りた詩、人生の指南書。これを新刊1600円のところを中古本300円で手に入れたところが自分の満足である。本の内容とは程遠いせこい話だが。



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by teccyan1 | 2018-03-31 19:27 | | Comments(0)

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忙しさというより面倒くささから、読みかけの本を取り出しては読みかじっている。NHKテキスト「100分で名著 真理の言葉」が目についた。アドラーの心理学で、このテキストがなかなかうまくまとまっていてわかりやすいと思ったので、このシリーズを他に何冊か読んだ。

「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」これらに関する文章がおもしろくてつらつらと思いを巡らしたりしている。この世は苦、あらゆる事物は変わっていく、すべてにおいて「私」というものはない、そしてこの世の苦から脱する状態へ、とまあ。おもしろい。

わたしが若返ったとして、もう一度人生をやり直した時、私は前の人生を覚えているだろうか。では3度目では10度目では、では一億年生きたら、その時、一億年前の私を意識できるだろうか。一億年前の私として存在しているのだろうか。つまり、「わたし」はその生の都度作られる幻である、と言えなくもない、と思ったりして、まあそんなことを考えたりしている。


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by teccyan1 | 2017-07-21 20:05 | | Comments(0)

ヘッセ詩集

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「世界詩人選03 ヘッセ詩集」(高橋健二訳、小沢書店)

目次
「青春詩集」のころ
孤独者の音楽
夜の慰め:
 詩集『危機』から(1926年と1927年)
 病床の詩(1927年)
 最後の詩
「新詩集」のころ:
 若いヨーゼフ・クネヒトの詩
さすらいのあと

*夜の慰めと「新詩集」のころは、小タイトルのついた詩篇とついていない詩篇が掲載されている。

さすらいのあと:
風炎の吹く夜/魔笛への入場券をもって/とりとめもない思い/笛のしらべ/救世主/階段/弟子の報告/ごきげんよう、浮き世夫人よ/耳を澄ます/砂にしるされた/秋のかおり/灰色の冬の日は/三月の太陽/日本の森深い渓谷に風化して行く古い古い仏像/小さい少年/疲れた夕べ/禅寺の若い修行僧


ヘッセの詩集は、高橋健二訳の新潮文庫をすでにもっている。そのあとがきに、ヘッセは死ぬ前年に詩集「階段」を出しており、その文庫には収められていないとある。ヘッセは死ぬまで作品の内容が変化している、ますます深まっていくという印象を持っているので、最後に本人が出版した詩集に何を書いているのか、ぜひ読んでみたいと思っていた。訳者高橋健二が「さすらいのあと」という題で別に出している、と書いてあるので探していたところ、見つけることができた。

ネットの古本で手に入れたのがこの本。いそいそとページを開いてみたが、なんと、掲載されている全17篇のうち、8篇をすでに読んでいた。草思社から出ていたヘッセ本に掲載されていた。なんだと思う気持ちもあったが、これで文庫本より文字の大きな読みやすい、まとまったヘッセの詩集がついに手に入ったという嬉しい気持ちにもなった。

本の最後にある説明によると、小沢書店が新潮社の協力を得て企画された「小沢クラシックス」の中の1冊。1996年5月20日第1刷発行とある。

ヘッセのすべての詩を読むつもりはないが、興味をそそる詩は読んでみたい。新しく手に入れた詩集の解説の最後に詩集のほかに小説の中にもまとまった詩があると、「ヘルマン・ラウシャー」「インドから」「放浪」「ガラス玉演戯」が紹介されている。ガラス玉演戯はすでに持っている。あと3冊の中で、これはと思うことがあれば、また手に入れてみたい。

もともと、ヘッセに興味を持ったのは「ガラス玉演戯」なる本を知ったから。さらに、どこがすばらしいのかわからない上に、この中にある詩が難解で困ったことからヘッセのほかの小説、詩を読もうと作品をあさり始めた。「ガラス玉演戯」はわたしには難しく、おそらく死ぬまで理解するなどということはないだろう。しかしヘッセの他の小説や詩を読むようになってからは、「ガラス玉演戯」もぐっと身近なものになったことは確か。

歳をとるほどに、ヘッセの詩が、言葉が身に染みる。ヘッセの小説はその構成など、物語としての興味はほとんどもっていない。というより、わたしは小説にほとんど興味がない。しかしヘッセの文章は、小説というよりは詩としての魅力に、また人生に対する向き合い方を教えてくれる指南書として、大変興味深く大切にしているし、その言葉をむさぼっている。

本を手に取り、ページをめくるたびにヘッセから何かを贈られたような、諭されたような、そして生活がまたひとつ豊かに感じられて、ありがたい気持ちになって、本棚にもどす。

*実はこの本1100円とあったのだが、売り手の都合で、無料で手に入った。お詫びが入っていたがどこが悪いとは書いてない。背表示が日焼けして、少し傷が入って破れているのがその原因か、と思っているのだが、中身は問題なく読めるし、自分としては不満でないので、ありがたく思っている。



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by teccyan1 | 2016-09-14 21:01 | | Comments(0)

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「農業は人類の原罪である」
コリン・タッジ著、竹内久美子訳、新潮社

人類の歴史、生命の歴史、進化論、アダムとイブ、大洪水の伝承、南極大陸の地図、浦島太郎のタイムスリップなどなど、この手の話が小さなころから大好き。もっともこれらはほとんど仮説、もしくは妄想であって、ほとんど根拠に欠ける。科学的といわれるものですら、新しい事実の発見の前には過去の妄想と化す。この本に書かれていることも、事実からの推論である。ただ、本当の歴史というものはすべての物的証拠を残しているわけではないから、科学的学術的論述だけを事実として認識するのでは、歴史を学ぶ意味がない。

この本は自分がもやもやと思っていたことをずばりと言ってくれていておもしろい。農業はなぜ生まれたか、ネアンデルタール人はなぜ滅びたか、エデンの園はペルシャ湾にあった、神はなぜカインを選ばなかったか、農業はどのように発展してきたか、好奇心はどんどん刺激される。

生命を維持するために農業を獲得し、人口が増え、それを維持するために農業を拡大し、また人口が増えて、また拡大する、その度に自然を破壊し続けるという悪循環、という説明は、近い将来が予測できるようでおもしろい。

農業発展の結果、都市、文明が出来上がり、今がある。それが温暖化をまねいて、気象の変化が起こり、農業へ打撃を与える、やがて食糧難が起こり、病気がはやり、人類は激減する。保守派は他の惑星へさらに拡大を目指し、新しい道を模索するものは、新しい人生観を模索し、農業以外のものへ目を向ける。SFばりの世界がひろがりそうだが、優れた作品が未来を予見したように、そのような物語がやがて書かれるかもしれない。

この本は新しい芽生えを刺激する。



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by teccyan1 | 2015-10-02 10:19 | | Comments(0)

石井崇の画集

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「イシイ・タカシの世界」
講談社、1994年11月10日第1刷発行、ISBN4-06-207157-6

ギター曲「プラテーロと私」と出会って、その詩を知って、そこからイメージした画集を知って、石井崇という画家を知る。本物の絵、または版画が欲しいと思っていたけど、高くて断念したこともある。せめてとずっと以前、カレンダーを買ったこともある。その画家の画集が古本に出ていたので買った。

期待通りのいい絵で、心が和む。スペインの風景を情景画と称しているらしい。なるほど、見ているとわかるような気がする。それは自分が夕方の散歩の時にいつも見ている空の景色の様でもある。おそらく、石井崇さんの絵のような写真が撮りたいんだろう。



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by teccyan1 | 2015-09-09 21:05 | | Comments(0)

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「100分で名著 種の起源」
ダーウィン、長谷川真理子解説。

中学生のころだったか、進化論を説明する文章に、首の短いキリンが高い場所にある葉を食べようとして首を伸ばすうちに首が伸びてきた、これを進化として説明していた。記憶が正しければ教科書であったと思う。また、進化の説明で、キリンはこれを選んだとか、意思をもって変化してきたかのような口ぶり書きぶりの説明も見聞きした。

わたしにはこれがどうにも納得いかなかった。そして現在、DNAによる進化の説明などからやっぱりあれはおかしいと確信した。進化論はうそだと。自分の頭にあるは、DNAによって生物はランダムに変化し、さまざまな個体が環境に適応して残ってきただけであり、そこに個体の意思などというものも、環境で獲得したものを残してきたなどということはない、という考えがまとまりつつあった。

ところが、今回NHKに番組のテキストを読んでみると、わたしが昔見聞きしたダーウィンはそんなことは書いていないということを知る。そしてまさに自分が現在頭にまとまりつつあることこそ、ダーウィンの書いたことであると理解した。

自然淘汰は目的を持っていはいない、意思も持っていないというのである。そりゃそうだろう。納得である。サルが人間になったのではなく、元になる生物が変化して現在のサルと人間がいるだけのことである。納得である。

進化という言葉が、はしごを上っていき、やがて頂点に立つという印象を与えるので、下等なものから上等なものへ、下から上へ勝ち上がるように誤解されるというのである。

そういう意味では「進化論」というのは今でも納得がいかない。「多様性論」とか「順応変化論」とか言って欲しい。何も進んではいないのだから。われわれは人間になる道を選んだ、という言い方もおかしい。選んだのは我々でなく、自然環境であるから。そこには西洋人のもつ感覚があるように思う。歴史にしても、時間にしてもまっすぐにある方向に意思を持って意思を持って進んでいるというような。そこにはいまだに西洋人の傲慢を感じる。

結果、ダーウィンの「種の起源」は種の起源であって進化論ではない。そこがどうも気に入らない。



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by teccyan1 | 2015-08-28 10:22 | | Comments(0)

ヒメネスの詩集

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「ヒメネス詩集」
ファン・ラモン・ヒメネス 著
伊藤武好、伊藤百合子 編・訳
未知谷

世の中の現象を、自分の肉体までも素通しして、精神というか、感性というかそのものを言葉として抽出しているような、森にろ過された真実の水滴のような言葉がならぶ。美しくてすばらしい。そしてまた非常にわかりやすい言葉を使っているのが良い。死をも超えて見せたかのような精神はヘルマン・ヘッセと通じるものを感じてうれしい。

「プラテーロとわたし」の作者。プラテーロの詩を知ってから他の作品が気になっていた。2013年に出版されていた。復刻版だそうな。







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by teccyan1 | 2015-03-06 10:08 | | Comments(0)

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「人生の重荷をプラスにする人マイナスにする人」(加藤諦三、PHP)

あとがきに「喜びと楽しみは、自信や幸福と直接関係ない」という項目がある。
幸福な人も悲しみはあり、喜びもあるし、そうでない人だって悲しみも喜びもあるという話。金持ちであるということは、その点で喜びだが、悲しいことがないわけではないし、つらいことがないわけでもない。貧乏人も楽しみがないわけではないし、喜びがないこともない。つまりこれをむりやり関連付けて、「真の幸福とは~」などという文章は説得力に欠ける、というようなことが書いてある。

このあたりは、仏教の教えと似ているようでおもしろい。感覚的なことが、何かをつくり、あるように感じるのであって、何かがあって感じているのではない。だから、外界の刺激によって幸福感を感じるというのはじつはけっこう単純でなく複雑な経路で感じているらしい。

だから、「あ、きれい、気持ち良い」と感じるのは単に感覚的なことであって、幸福感とは違う。幸福感はさらにちがった回路で意識しなおすというか感じなおすものなのだろう。今の瞬間、これが何であるか、生きること、そんなところへたどりつけば、少なからず悟った、ということなんだろうか。

自分の環境はどんどん変わる。予定にないこともあれば、想定内のこともある。いやなことも相変わらずあり、楽しいこともまたある。それだけのことだ、とも思えるし、だからこそ活力を持って生活していきたいとか、まあ、そんなことを思ってみたりする。



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by teccyan1 | 2014-04-26 09:48 | | Comments(2)

強い写真と、広がる写真

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「木村伊兵衛と土門拳」(三島靖 平凡社ライブラリー)

木村伊兵衛の写真に興味があって、写真集が欲しいのだが、けっこう高価、でこういう本なら安く写真がたくさん見られると思って買った。思ったより写真の点数が少ないのが残念。でも興味をひく写真もあっておもしろい。

土門拳の写真は、力強い。とにかく目を引く。ひきつけて離さない。画面の中に完成された物体というか空間が強烈に訴えかけてくる。木村伊兵衛の写真は、写真の枠をこえて。外側、右左上下、どこからか何かが流れてきて、流れていくというような、次の何か、前の何かを感じさせる。

土門拳は画家になりたかったらしく、なるほど額の中にしっかり写しこむ。そこにはカメラマンの内面あるいは被写体の内面みたいなものが現れていそう。一方、木村伊兵衛はカメラによって写されたもの、というカメラマンの立ち位置とか動きとか、その時の時間の流れみたいなものが感じられそう。

写真に関してのふたりのコメントもおりまぜて、ふたりが何を撮ってきたかを考える文章なのだが、わたしは木村伊兵衛さんのコメントに興味を持つ。土門拳さんのコメントは時に観念的で、感情的で、あれにのめりこむとちょっと危ない、という感じがある。伊兵衛さんのコメントは、どこか他人を突き放していて、知らん顔を決め込むようだが、わたしにはこのほうが自分を見失わないようでありがたい。

もちろん写真はどちらもすばらしい。



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by teccyan1 | 2014-02-18 18:30 | | Comments(0)

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「この人を見よ」(増谷文雄著、現代教養文庫)

お釈迦様の姿はどんなだっただろうか。そんな素朴な問いに応えた文章。ブッダに関することは科学的な確証を得るものはなにもないということらしい。ただ経を読み、当時の社会を学び、想像するしかない。何を捨て、何を拾うか、書く者の知識とセンスが問われる。

わかりやすい文章で、お釈迦様はこのように話し、歩いていたのだろう、と思わせるような、誰もこれを否定できないし、肯定もできない、ブッダ本のなかでも、ひょっとしたら歴史からこぼれ落ちてしまうのだろうか、と思わせるようなわかりやすい文章。

司馬遼太郎の本を思い出す。取材し検証し想像する、それにちかい。自分が今まで漠然と思っていた偉い坊さんはすごい、というどこかスーパーマン的な映像ではなくて、現実的にはこんな感じであったろうと思わせる。風邪をよくひいていたとか、歳をとった、そして亡くなった、という当たり前の文章が生々しい。



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by teccyan1 | 2013-11-03 16:48 | | Comments(0)

自分のこと、音楽のこと、本のこと。
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